クリエイティブと評価

今回のゴーストライターの件、自分にとっての最大の興味は、要するに創作物の善し悪しを人は一体なにで評価しているのか?という一点につきる。
被曝2世(この被曝2世というのも僕にはよくわからない)、聴覚障害、震災、そのような点で人は音楽を聞くものならば、それが現在の日本の音楽シーンということなのだろう。

 

 

といいつつ、ふと思い出したが、今年のグラミーで行われたダフト・パンクのライブのスティービーワンダーのパフォーマンスだ。
リンクを張ったので未見の方は是非見てほしい。
これを見ればスティービーワンダーが視覚障害者だからライブが素晴らしいという評価はナンセンス極まりないことが十分理解可能であろう。
批評がどうとか、質がどうとか、そんなことは全然関係なく、問題は非常に単純で、いいものはいいし、良くないものはただ流れるだけ。
音楽はそれを聴いた瞬間に素晴らしいと直感できるインプレッションに直結した存在であると僕は思っている。

しかし、その一方で消費社会というのは記号化されたストーリーを価値として付加し、それを共有することで人々は共同の幻想を持つ。
価値というものがある種の共同幻想の中に成立しているものであるとすれば、付加されたイメージが人々の評価を左右することも十分ありえるし、それが不純だとも言い切れまい。
そう考えれば考える程、今回問題になった音楽そのものに僕は同情してしまう。
各局で流されたドキュメンタリーが虚飾に満ちたものであったとしても、曲そのものにはなんの罪もないし、それを良いものか、どうでも良いものかは、本質的には聞く側が精査すればいいだけの話なのだ。

実は今回話題になっているNHKのドキュメンタリーをこの騒動前に見ていた。それまでこの作曲家のことは知らなかったので、テレビ視聴後、少々興味がでて試聴もしたが自身にはピンとこなかった。
もともとクラシックに精通しているわけではない人間が正当な評価ができるか?という指摘ももちろんだと思うし、自分の評価が正しかったと自慢したいわけでもない。
要は評価とはそんなものだということだ。
知識が多ければ様々な評価範囲は広がるであろうが、それが他人にとって正当な評価かどうかは本人が決めるしかないのだ。

創作をしている人間として、肝に銘じたいと思う。
作品を評価するのは、それを見ている一人一人だということを。