あいちトリエンナーレ2019を見た上で考えたこと、感じたこと
あいちトリエンナーレ2019「情の時代」に行ってきました。
名古屋は昼間はまさに灼熱と言っていい環境で、メントール成分を含んだウェットシートにかなり助けられました。これから8月中に行く方は、ぜひ現地で調達を勧めます。
さて、今回の芸術祭、開催前には芸術監督の津田大介氏がジャーナリスト的視点から芸術祭参加アーティストのジェンダーバランスへの問題提起など、何かと話題でしたので楽しみにしていきました。
行ってみた上で振り返ると、この芸術祭の目指した方向性を一言で言えばボーダーを超えるという理想を目指すのではなく、まずはボーダーを考えることそのもののような気がしました。一般的に社会的なボーダーは当事者やそれに近い人間しかその存在を認知しづらいものです。それを簡単に無自覚と切って捨てず、いかにして認知させるのか、そして認知したあと我々はどのように振る舞うべきなのかを問うという姿勢は貫かれいたように思います。
さて、作品一つ一つは行って見た人が感じることですので、あまり言及することは止そうと思いますがその中でも3点だけをご紹介します。
1つ目は旧豊田東高校のプールにあった高嶺格作品、これはまさに力技と言うか、行ってみてみるだけでその凄さがわかるという作品でした。廃校になった高校のプールの床を切り出し建てかけた作品ですが、とにかく外の暑さとその大きさに圧倒されるばかりでした。
また喜楽亭のホー・ツーニェンの映像インスタレーションは手紙のやり取りの中に漂う戦争の恐ろしさ・表現への苦悩が見える作品でした。第1回目の札幌国際芸術祭で会場となった清華亭のような古い建築の中にいくつものスクリーンが設置され、また映像と連動した振動スピーカーが空間そのものを揺らす演出は通常の映像体験とは違うものとして引き込まれました。
円頓寺にあったキュンチョメのインスタレーションも素晴らしかったです。この作品は改名を決意したトランスジェンダー、Xジェンダーなどの若者が改名にいたった経緯をインタビュー形式で吐露していく内容でした。圧巻だったのは、映像の最後に本人が改名した名前を何度も叫ぶシーン。普段結構クールに作品を見ようと心がける自分もグッと感情が上がる瞬間がありました。何はなくとも、キュンチョメ作品は見ておくべきと思います。
さて、「表現の不自由展・その後」についてです。僕は本当に運良く見ることができましたが、これについてはネット上では多く語らないようにしようと思います。その理由は、自分の考えと同様の意見がすでに多く見られること、またSNSひいてはネットという空間に心底嫌気が差したからです。SNSやネットは使いようによっては便利なものです。SNSによって長らく会わなかった人とも繋がり、ネットがなければ出会わなかった人もいます。それでも、現状ではネット空間に希望を持つのは厳しいかなと。直情的で扇情的な言説しかない場は僕の求めているところではないと言う気がします。今僕が一番大切なものとして思うのは、お互いがしっかりと目を見て、ジョークを言いながら、美味しいものを食べつつ、不自由について語りたいというとてもシンプルなものです。ですので、いつかそんな機会が持てたらと思っています。
とはいえ、運良く見れた僕が感想をまったく言わないのも何なので少しだけ話すと、作品それぞれは議論を催す程ではないという印象のものばかりでした。ですので、ここでは一つ一つの作品に対しての言及は避けます。
ただ展示の企画そのものには大いに気になる点がありました。それは不自由さに対する作品の傾向が著しく偏っていたことにあります。不自由さとは何も左翼的思想にだけ寄ったものではないはずですが、作品のメッセージがそればかりで正直閉口するような印象もありました。不自由さを語るならば、左右の思想だけではなくモラルや法というものも取り扱い、少なくともそのテーマについて対立する軸の両論併記でなければ底の浅いメッセージが透けて見えてしまいます。その点ではああいう結果になるべくしてなったとも言えるし、その反応に対する準備不足も否めません。もちろん脅迫行為は厳しく罰せられるべきですが、少なくとも展示のコンセプトとしてはいま一歩どころか二歩も三歩もダメなところがあったと思います。
そして、実はこれが一番伝えたいのですが。。。
僕がこのトリエンナーレに行った8月3日−4日はちょうど会場である愛知芸術文化センターの前でコスプレサミットが行われていました。そこには数千人単位のコスプレイヤーが集まり、またそのレイヤーを撮影するカメラマンたちでごった返していました。灼熱の名古屋にも関わらず、皆銘々に自分の好きなキャラクターに変身をし、何をするでもなく街を闊歩している。その様を見て、アートとサブカルチャーとの対比に少なからずショックを受けました。女性のキャラの衣装をまとい化粧をする男の子、キャラクターに忠実に胸やお尻を露出する若い女の子、コスプレを通り越しモノ化してしまった輩etc.
それはまさに今あいちトリエンナーレ2019「情の時代」が問題とするボーダーそのものを軽々と超えている様ではないかと、そんな気がしたのです。もちろんジェンダーなど問題となる事柄の深みが違うことは承知の上ですが、それでもなお、その光景は日本においてアートは徹底的に無力ではないか、というとても皮肉なものに見えました。
しかし、僕はコスプレのような大衆文化を全面的に肯定しているわけではありません。なぜなら僕が見たコスプレ表現者たちは半径5mのリアルの中でしか生きていないように見えたからです。もちろん、コスプレサミットは1年に一度のお祭りですから、小難しいことなしにただ集まり、その時間を過ごすということで十分です。ネット空間の中ではなく、自らが出向きしっかりとコミュニケートしている様子は、むしろ清々しく美しくも見えました。しかしそれでもなお、そこはかとない不安が漂うのです。自らの表現として半径5mの範囲で楽しむことだけで満足していていいのだろうか?もしかしたらこれからの未来に存在するかもしれない「表現の不自由」を自覚せず、ただ流れるままに半径5mの世界で生き続けることで人は満足していけるのだろうかと。
以前Facebookに長めの書き込みをしたとおり、僕は全てはバランスの問題だと思っています。不自由さを語るにもその不自由さの本質を知るためにはどちらか一方に偏るのではなく、そのどちらも知りたい。半径5mで満足する表現と徹底して社会との接点を模索する表現、そのどちらにも表現としての意味があるはずで、僕はいつまでもその点において希望を持っていたいと思います。
そのうえで、改めて「情」というものを考えていく事が必要なのではないかとつくづく思うのです。
長い文章の最後に。
円頓寺では七夕まつりが行われていました。暑さにも関わらず多くの人が縁日やイベントを楽しんでいました。アーケードに釣られた多くのキャラクターと集う人々、それは何か人々が作る祝祭というものの本質を見せてもらえたような気がします。